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オテル モル  栗田有起  集英社文庫

 初めて読む作家です。
いつだったか本屋でぶらぶらしていたときに見つけました。
最近はネットで買うことが多くて、めったに本屋で買うことはないのですが、
本屋ってやっぱり楽しいわ。
知らない作品に出会えるし。

なんだろうと思わせるタイトルと、ほんわかした表紙に惹かれたのだけれど。

前の本がハードだったので、今回はほんわか読めてよかったな。

主人公は日没から日の出まで営業しているホテルのフロントに勤めています。
妹の夫は元恋人で、その彼と妹と彼の子どもと3人で暮らしています。
妹は今入院中で、実は双子の妹だということが途中でわかります。

状況はけっしてほんわかしているものではないけれど、
激せず、泣かず、少し哀しみがあり、いとおしさもあり、淡々と日常が過ぎていく、そんな雰囲気を持つ作品です。

このホテルが面白かったな。
お客さんや、経営者兼客室係の女性なんかが素敵でした。

ラストがね...え、これで終りですか...?と思ったけれど。

モリヤ * か行 * 08:34 * comments(0) * trackbacks(0)

白洲次郎 占領を背負った男  北 康利 講談社

先日、NHKで放映された白洲次郎を描いたドラマを見て、何かを読んでみたいと思った私です。
夫の本棚に何冊かあったな、と思い、
「陋巷に在り」を読み終えてから探しました。
あれ・・・ない・・・
「古本屋に行ってしまったかなあ」という夫に文句を言いながら、(文句をいわれる夫は気の毒だったが)探し続けたら、この本と、白洲次郎語録のような本が残っていたのね。
よかった・・・・

これは作者が、白洲次郎とかかわりのあった人たちにお話をきいたり、とてもたくさんの参考文献を読み書いたもの。
圧巻、こんな人が日本に居たのね・・・と感動しました。

とくに、
(抜粋)
日本政府を代表してGHQとの交渉窓口を任されていたときのこと、昭和天皇からのクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に持参したことがあった。すでに机の上には贈り物が堆く積まれている。そこでマッカーサーは、
「そのあたりにでも置いておいてくれ」
と絨毯の上を指差した。
そのとたん白洲は血相を変え、
「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」
と叱り飛ばし、贈り物を持って帰ろうとした。さすがのマッカーサーもあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという。
ーー戦争には負けたけれども奴隷になったわけではない。
それが彼の口癖だった。

このシーンはドラマでもあって、私はここにシビレちゃったのだ。

富豪の家に生まれ、イギリスの ケンブリッジ大学で若い頃を過し、その後の人生も華麗、かかわった人々は、歴史の教科書に名を見ることのできる人々である。
そんな経歴を読んでしまうと、嫌味にも感じそうだけれど、実はそんなふうにはまったく思うことがないのね。白洲次郎という人は、いつも真剣で、とてつもない人だったのだな、と思う。一流の人だなあと思います。

抜粋
プリンシブルを持って生きれば、人生に迷うことな無い。プリンシブルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう。

ほんと、こうやって生きたのよね、きっと。

モリヤ * か行 * 07:49 * comments(0) * trackbacks(0)

縦糸横糸 河合隼雄 新潮文庫

なんとなく気持ちがすさんでいるときは、河合さんのご本が助けになる。
この人の本ならば、心を鎮めてくれるだろうと思う。
読む前から、そんな先入観を持つのは、今までたくさんの河合さんのご本を読んできたからだ。
そんな作家(河合さんは小説家ではないけれど)に出会えたことが幸せだと思う。

これは、産經新聞にコラムとして発表されたものをまとめたものだ。
コラムなので、1つ1つが短く、また易しい文章で書かれている。
私には、ありがたいことだなあ・・・・

抜粋
・・・簡単にその「原因」などわかるはずがない、ということである。原因ー結果という一筋の道筋によって、これほどのことを説明したり、納得したりしようとする態度を、まず棄てることだ。「なぜ」と問えば必ず答えが返ってくるはずだ、というのは現代人のあさはかな思い込みである。

・・・結局のところは、善悪に関しても個人の判断が重要になってくるが、その判断に関しては、明確な自己責任が伴うことになる。このとき、判断のあり方は各人の「まったく自由」と安易に決めつけてしまうのが現代日本の悪いところである。自由に考えるためには、そこに何らかの規準が必要なのだ。規則あってこそ自由が生きる、という逆説を日本人はもっと知るべきである。

・・・子どもの心を理解することは大切だ。(中略)しかし、理解することと甘くなることは別のことである。むしろ思春期の心の深みに生じている凄まじい嵐のことを理解した人間は、その嵐から少年を守るために、どれほど強力な壁としてその前に立ちはだからねばならぬかがわかるはずだ。
 ここで「壁」と言っているのは、しっかりと立っているということだ。やたらに子どもに対して、「あれをせよ」とか「これをするな」と細かく干渉したり、力で押えつけたりすることではない。「壁」は「ここからは絶対駄目」としっかり立っているが、自分から動いて人を押さえつけたりしない。

・・・「してはならないこと」を規制することに熱心になりすぎたり、「してはならないこと」をしないように気を遣いすぎたりすると、「するべきこと」をする気持ちが弱くなってくるのが、人間というものであろう。

・・・私は、現代人というのは他に転嫁するのではなく、自分のなかにある不安や悪の存在を、しっかりと見つめる義務があると思っている。そうすると、徐々にではあるが、自分なりに自分を支える拠りどころが形成されてくる。それによって、相当に班は収まるし、自分の外に無用の悪を探し出す必要もなくなってくる。しかし、それは「絶対に正義」ではないことを、自覚していなくてはならない。

・・・家庭教育というものは、家庭でしか味わえない安心感や温かさなどを基盤として、そのなかで、しっかりとした規範を親から子へと伝えられることによって成立するものである。(中略)真の自由が厳しい規範を伴うことが理解できず、野方図な自由放任になってしまった。

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モリヤ * か行 * 15:50 * comments(0) * trackbacks(0)

冷血 トルーマン・カポーティ 新潮文庫

40年以上も前に発表された作品なのに、いまだに雑誌の読書紹介なんかの記事でよく見かける作品よね。
ノンフィクション・ノベルというジャンルの代表作なのでしょうね。

この小説は、まだ20才のころ、尊敬する年上の知人に勧められ読んだのだけれど、すっかり忘れてしまっていたの(悲しいざる頭)。
雑誌でこの小説が何度も取り上げられているのを読んでいて、
そういえばまだ家の本棚にあったかも、と思って探したこともあるけれど、いつの間にか手許から無くなっていたのね。いつかどこかで古本屋さんに持っていったのでしょうね。
ところが、最近になって夫が買ってきたわけね。
巡り会いだなと思ってまた読んでみました。

この作品を書くために、どれだけの膨大な資料を調べ、取材をし、整理し、年月を費やしたのかな。

吐き気をもよおしそうな、ひとりよがりな犯人たち
執念で事件を置い続ける警察
ひどく傷ついたまわりの人々や
事件の影響をうけた人々

陰鬱なストーリーの中で、
1つだけ救いのように暖かなエピソードもあった

事実を事実のまま伝えるのなら、ノベルとは言われなかったでしょうね。
これがノベルと言われるのは
やはりたくさんの人達のドラマが読み手に伝わってくるからなのでしょう。




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モリヤ * か行 * 11:51 * comments(0) * trackbacks(0)

メタボラ 桐野夏生 朝日新聞社

仕事に時間をとらねばならず、またずいぶん読書ができませんでした。

今回読んだのはメタボラ。
これは読書好きの友人、トビエイさんから勧めてもらった本です。
桐野夏生はたくさん読んでいますが、ストーリーが面白くて、ぐんぐん読み進めることができます。今回も長編ですが、一気でした。

最初はね、主人公がなぜかわからないけれど、山の奥深くに入り込んでいる自分に気がつくところから、はじまる。おっ、なんだか私の好きな作家、古川日出男のような書き出し。
記憶を失った主人公が山奥で出会った昭光としばらく旅をつづけ、その後別々に旅を続けるのですが、主人公はその中で失った記憶を取り戻していくのです。なぜ、沖縄の山の中に自分がいたのか、なぜ身元を証明するようなものを1つも持っていなかったのかが、次第に明らかにされます。

主人公が出会った人々は、いびつであったり、悲しかったりするのだけれど、どんな人間も何かを抱えて生きているのがよくわかります。小説って、人の生を描くことなのね・・・・

抜き書き
「あたしたちって、 ヨルサクハナだなって、もうこの入口入るとでられないって、」
「放浪は死に近い」

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モリヤ * か行 * 08:49 * comments(0) * trackbacks(1)

快読シェイクスピア 河合隼雄×松岡和子

河合隼雄さんと松岡和子さんの対談です。
松岡和子さんが、シェイクスピア全37戯曲を翻訳されたところでの対談でした。

シェイクスピアってね、あまりにも有名でしょ。
「ロミオとジュリエット」とか「リア王」とか・・・
で、読んだ気になっているけれど、実は私は読んだことがなかったな、と思ったのでした。
子ども向けにあらすじのみ程度のダイジェスト版で読んだ記憶のある「ロミオとジュリエット」。中学校の時の文化祭で、隣のクラスがやっていた「リア王」。
「ハムレット」も「オセロー」も、なんとなく(こんな話)という程度に知っている気分だけれど、実は読んだことがない。

シェイクスピアですか・・・
読んでみようかな・・・と、だいだいこうやって本を読んでいって、どこかで何かの本の話があったりして、そっちにぐぐっとスライドしていくのが、読書の王道と言えばそうでしょうが、思うだけで、日がたつにつれて、そのまま忘れていったりも・・・
ちょっとネットの古本屋さんを見てみようかな。

私はまったく知らなかったのだれど、シェイクスピアの戯曲のほとんどは、下敷きがあるお話なのね。その種本に多くの設定を頼りながら、でも決定的に違う、シェイクスピアの作品になっているのだそうです。
そのへんのシェイクスピアの天才ぶりを、松岡さんが熱く語っているところがいいなあ。

で、この本を持って、私の手持ちの河合隼雄さんが終わってしまったのでした。
じゃあ、ひさびさに小説を・・・と次の作品を決めていたのだけれど、
この本の後半で、アドラーの名前が出てきてしまった・・・
アドラーといえば、半年ほど前に、仲間内で出てきたフロイト、ユングにならぶ精神分析医。友人にお借りしている本も、手許にあるのです。

これは、やはり小説の前にこれ、でしょうか・・・

抜粋
松岡さんの部分
・・・ずらっと並んだタイトルの中のMelting Snowというタイトルまできてはたと立ち止まってしまった。直訳すれば「解けていく雪、解けつつある雪」なんです。なんじゃ、これは? 何を指しているのか、どんな絵なのか思い浮かべることもできない。そこで、担当者に頼んで絵の覆製のコピーを送ってもらうことにしました。
 それを一目見て「あっ」と思いました。画面の大半を占めるのは枯れ草に覆われた大地。そこを歩いている人のブーツを履いた脚が、映画で言えば「大写し」で描かれている。で、画面の片隅には、周縁が薄くなって下の枯れ草が透けて見えそうな雪。Melting Snowは「残雪」のことだったのです。
 面白いなと思いました。こういう雪をmelting「解けつつある」と表現すrと、その先に見えてくるのは、雪が解けきった枯れ草の丘。先々この雪はすっかり解けてなくなるということが前提となっている。「未来」に目が向いた表現。一方「残雪=残っている雪」または「名残り雪」という言葉の背後には、まだ雪に覆われていた雪解け前の丘という風景がありはしないか。「残雪」は「過去」に目を向けた表現だと言えるでしょう。

before I forgetは「いずれ忘れる」という「未来」が前提になった言い方です。本来の日本語なら「忘れないうちに」と言うべきで、これは、「忘れないで憶えている」過去から現在までの時間を基にした言い方。

河合さんの部分
人間はみんな徹底できないものです。

大体、善人というのは反省しない。これが一番怖いです。

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モリヤ * か行 * 21:14 * comments(2) * trackbacks(1)

小学生に授業 河合隼雄・梅原猛 小学館文庫

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今回は、河合隼雄さんだけではありません。京都市立桂坂小学校で、日本文化研究センターの先生たちが授業をした、その内容です。対象は小学5、6年生。いやいや、こんな授業を聴いてみたいものです。

授業をしてくれた先生たちは
梅原 猛(哲学専攻)・・・学問の楽しさ
山折哲雄(宗教史・思想史専攻)・・・宮沢賢治
河合隼雄(臨床心理学専攻)・・・道徳
尾本恵市(自然人類学専攻)・・・自然に学ぶ
井波律子(中国文学専攻)・・・三国志
芳賀 徹(比較文化史専攻)・・・俳句
木村 汎(ロシア政治学専攻)・・・交渉
山田慶兒(科学技術史専攻)・・・時を計る
安田喜憲(環境考古学・地理学専攻)・・・地中の花粉

抜粋
(尾本恵市さんの「自然に学ぶ」という授業の中、子どもの頃から蝶を集めていた尾本さんが東京では生息していないはずのキベリタテハという蝶を見つけたという話から、)
 これをみなさんはどう思うかな。ただ運がよかっただけだろうと思うでしょう? 僕はそうは思わない。運というのはね、ただだま在っていれば上からポンと降ってくるものだと思ったら大間違い。運というものは、みんな自分でつかむものです。(中略)しかし、それがすごく珍しいチョウだってことは、僕はいろいろな図鑑を見て知っていたから採ることができたのです。だからやはり勉強していないと、運も近寄ってくれないのです。知らないうちに運はみんな通り過ぎてしまうのです。

木村さんの「交渉」の授業から
 結局、自分の文化が一体どういう特徴を持っているか冷静に勉強することが、一番目に大事なことです。
 二番目に大事なことは、そのことと同じくらいの真剣さでもって、相手の文化を研究し、理解することです。よその国の人の考え方を知ることは、ものすごく難しいことです。しかし、にもかかわらずそのことをぜひやらなければならない。
 三番目に、両者の間になんとかして橋をかけることができないか、と努力をつくすことです。
 そして四番目に、こういう日本語はないかもしれないけれど、「二文化人間」となることです。みなさん個人個人が二つの文化をわかる人間となることです。自分が生まれ育った日本の文化のほかに、どこかほかの国の文化ーーできるだけ数が多いほうがいいのですがーーひとつでもいいからほかの国の文化をわかるような人間になることです。
 そうして、異なる文化を持つ国の人たちと共に存在していく道を見つけていくこと。(中略)そういうことを具体的に身をもって教えてくれるのが「交渉」なのです。


モリヤ * か行 * 20:40 * comments(0) * trackbacks(2)

子どもと悪 河合隼雄 岩波書店

子育ては親にとって一番大切な仕事。
その「子ども」と「悪」って何かな?
と、興味津々で読み始めたのです。
今回は、青年期よりさらに前の「子ども」です。

河合さんのご本は、どれを読んでも他者と「共に生きる」ことが、書かれています。

抜粋
きょうだいのなかの誰かが「反抗」の役をしっかりと担うと、他の子どもはそんなことをあまりする必要がなくなることがある。家庭はしばしば全体としての運命を背負っているようなところがある。

「善良なるものは創造しない。それは想像力を欠いている」(シオラン)

・・・私が「盗み」を賞賛していると思ってもらっては困る。それはあくまで悪いことで禁止しなくてはならない。だが、その悪のなかに深い意味があることは知って欲しい。このようなバラドックスに満ちているのが人生であり、それを身をもって知っている先達として子どもの悪に接することが必要ではなかろうか。そこには画一的な答はないのである。

常識というものは、この世に生きていく上で必要ではあるが、恐ろしいものである。

・・・このような療法をしていると、ルールがあるというのはいいことだと思う。ルールがあるために、人間と人間がぶつかる契機が生まれてくる。自由遊びと言っても、まったくの「自由」になると、下手をするとぬるま湯につかっているようで、何事も怒らないかも知れない。ただここで注意すべきは、ルールがあると、それを守らせればよいのだ、それによって善悪がはっきりと判断できる、などという簡単なことではなく、ルールをめぐって人間と人間がぶつかり合うチャンスが訪れてくる、ということである。ルールを盾にして人間が隠れるのではなく、ルールを手がかりとして、人間がそこにあらわにされるのが意義深い。

また「元気で明るいよい子」好きの大人は、子どもが怒ったり悲しんだりするのを忌避する傾向が強い。「泣いてはいけません」「そんなに怒るものではありません」と注意して、子どもはいつも明るくしていなければならない。このような人は一年中「よい天気」が続いて一度も雨が降らなかったら、どんなことになるのか考えてみたことがあるのだろうか。子どもの成長のためには、泣くことも怒ることも大切だ。人間のもついろいろな感情を体験してこそ、豊かな人間になっていけるのだ。

常に希望を見出し楽しく生きること、子どもに厳しくしつけようとすること、これらは非常に大切なことだ。しかし、いくら楽しくしようとしても嫌なことや暗いことは存在する。厳しいしつけも、子どもにするだけではなく、親も守ろうとすると実に大変だ。それらの矛盾を、矛盾しながらも泣いたり笑ったりして、「共に生きる」のが家族ではなかろうか。



モリヤ * か行 * 17:40 * comments(0) * trackbacks(0)

大人になることのむずかしさ 河合隼雄 岩波書店

これは前回読んだ本と同じ感じかな、と思います。
青年期の問題というサブタイトルがついているのね。
これから思春期、反抗期を迎える私の子どもたちを思いながら、読んでいったのだけれど。
どうしてどうして、私自身がぎくっとした部分がたくさんある内容でした。
青年期っていうと、私の年代から言うともうずっと過去のようにも思うのだけれど、
人間って年だけじゃないし、
まだまだ未熟な自分や、自分が青年期という年代の頃に、何を落として育ってきたか、などなど、思う本でした。

抜粋
・・・つまずきをできるかぎり経験させないようにしすぎて、子どもが大人に成長してゆく、せっかくのチャンスを奪ってしまう人がある。あるいは、子どものつまずきが親に対する重要な問題提起を意味しているのに、子どもを責め、教師を非難し、社会の在り方を嘆いたりして、せっかくの子どもの問いかけにこたえない人もある。こうなると、子どもはそのつまずきから抜け出せないのも当然のことである。

子どものつまずきに対して、いったい誰が悪いのかと考えるのではなく、これは何を意味しているのかと考える方が、はるかに建設的なのである。

原因ー結果の連鎖を探り出そうとする態度は、ややもすると目を過去のみに向けさせ、そこに存在する悪を見つけて攻撃したり、後悔の念を強めたりするだけで、そこから前進する力を弱めることが多い。

友人関係はいろいろな要素から成り立っている。関係の緊密さという点にのみ目を向けるとき、それは非常によい関係であるかのように見えるが、実のところお互いの成長を妨害している関係として、「影の共有」関係というのがある。人間は誰しも「影の部分」というべきものを持っている。(中略)われわれは自分の克服しなくてはならない影の部分に対して、それと直面する苦しさをまぎらわすために、影の部分と共有する人間関係をもち・・・

単純に他人を非難せず、生じてきたすべての事象を「わがこと」として引き受ける力をもつことこそ、大人であるための条件であるといえるであろう。


モリヤ * か行 * 21:10 * comments(0) * trackbacks(0)

青春の夢と遊び 河合隼雄 講談社α文庫

一冊の本を読み終えて次にいくときに、どれにしようか迷うことが楽しいのよね。
ここしばらく河合さんを読み続けているので、今回は違う人にしようかな、とか、ずいぶん小説を読んでいないから、久々に小説を読もうかな、とか。

今回はちょっと迷ったのだけれど、結局また河合さんのご本を手にとってしまいました。
今度は青年期についての本でした。
読んでいくと
「・・・この先生が遊び半分を「中途半端」と誤解したため失敗した点にある。遊び半分は全力をあげてやらないと駄目なのだ。そして、実はこれはなかなかむずかしいことで相当な修練を必要とする。」というところがあって、何年か前に亡くなってしまった友人が、よく「一生懸命遊ばなきゃ、駄目なんですよ」と言っていたことを思い出しました。
 その人の言う「遊ぶもの」は、イコール「とても大切にしている事柄」だったので。同じような内容を言っても、人によっては「努力する」だとか「修練する」なんて言葉を使うこともあるだろうなと思ったりしました。私はそこを「遊ぶ」という言葉を使ったその人の感覚にとても共感したのだけれど。

で、抜粋
青春は年老いた者にも突然に訪れたりする。「内なる青春」についてよく知ると、中・高年の人生がおもしろくなる。「近頃の若い者は」とおきまりの嘆き節で周囲を迷惑がらせるのではなく、自分自身が「若者の特権」を味わったりもできるものである。人生に春はーー冬もーー何度も来る。

西洋近代の自我は、自分を相当に他から切断された存在として自覚しているのに対し、日本人の自我は常に他とのつながりを意識している、

理想を実現するためには「一挙にじゃなく、ゆるゆると時間をかけて」歩まねばならないのに、「現実での過程をとばして、安易にニセの」理想実現を夢みるとき、それをセンチメンタルということができるだろう。

人間は身体をもっている。というものの身体抜きではその人間の「存在」は感じられないのだから、身体のほうがその人間をもっていると言うべきかもしれない。

相手が幾つだろうと、自分自身がどういう人間であろうと、僕はある種のことに対しては手加減をいうものができないのだ。下らないものは下らないと思うし、我慢できないことは我慢できないのだ。(村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」から引用)

「下らないことを下らないと思うし、我慢できないことは我慢できない」ことを自他に対して明確にすること、それがその人の倫理観である。

・・・高い生活の獲得のためには「戦い」が必要である。ロマン主義はそのような戦いによって成就されることを、われわれは認識しなくてはならない。
 このことの認識が明確でないために、日本人にはロマン主義がわからない人が多いように思う。日本人が「ロマンチック」と言う場合は、多くは「センチメンタル」と言いかえたほうが適切なように思われる。

(古事記のなかの)天若日子が死んだときに、彼の父や妻子などが集まり喪屋をつくり、「日八日夜八日を遊びたりき」と記されている。おそらく八日間の連日連夜、歌舞などを行ったのであろうか、これは明らかに宗教的儀式である。死者の霊を弔うか、あるいはけがれを祓う意味あいでなされたのであろう。そもそも当時は「遊ぶ」という動詞そのものに宗教的な意味あいがこめられていたのではないかと思う。

人生にはどうしようもないことがある。死はその最たるものである。自分にとってどうしようもないことがあると知ることは、自分を超えることが存在するという自覚のはじまりである。

安易な楽しみは長続きがせず、楽しみを深めるためには苦しみを味わわねばならないが、あくまで楽しみを中心におきながら苦しむのと、苦しみのために苦しんでいるのとでは大きい差がある。しかも、前者のほうが効果的であるなら、なおさらである。

まったくの裏返しというのは、本質的にあまり変りがない。

ホームレスは現代の大きい問題である。家があり両親があり、物が豊富にありながら、心理的には「ホームレス」の子どもたちがいる。
 心理的ホームレスの人の「家庭」への希求は大きい。その夢はふくらむばかりで、普通の人間関係に満足できない。少し親しい人ができはじめるとその関係がすぐ悪化する。多くを求めすぎるので相手が耐えられなくなったり、相手のちょっとした心の動きを捉えて、自分のことをおろそかにしたと感じ(それは見当はずれではないのだが、判断が厳しすぎるのだ)、関係を断ってしまう。時には、相当に破壊的な行動に出ることもある。

現場は大切ですね。やはり、人間という混沌としたものをきちんと、理解できるようにすじみちをつけろというほうが間違っているわけであって、ダイナミックに丸ごとを見てこそ、はみだした部分に重要なものが感じられるんですね。(吉本ばななとの対談で。吉本ばななのことば)


モリヤ * か行 * 09:32 * comments(0) * trackbacks(0)
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