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生命の意味論 多田富雄 新潮社

 難しいなと思うところもありましたが、気にせず読み続けました。
多田富雄さんのご本は3冊目なので、
なじみに思う言葉も多く、面白かったです。
読みながら、
先日読んだ村上春樹の「1Q84」が重なりました。
重なる部分がたくさんあって驚くほどです。

ここでは人間の細胞、免疫の話だけでなく、
それとよく似た構造を、都市や文化、言語、宗教が持っているという話がとっても面白かった。
多田富雄さんの言うスーパーシステムというのは
それ自体に直接の目的はなく、システム自体が自己目的化して増殖し発展していくという動きなのですが、それは人間の細胞だけでなく、都市や文化や宗教にも見られるというのです。
都市の中でも、スーパーシステムを持っている都市と、
あらかじめ青写真が出来てから作られた都市があり、その場合の都市はスーパーシステムを持たない。その対比が愉快です。

メモ
 たとえば日本語に、「フィロソフィア」というギリシャ語が入ってきたとする。それは日本語の「自己」にとって明らかに「非自己」であり、異物である。当然排除しなければならない。
 しかし、「フィロソフィア」の持つ意味が理解されるようになると、「フィロソフィア」の概念を、日本語の中に取り込まなければならなくなる。その時、明治の碩学西周が、「哲学」という言葉を作った。もともと日本には存在しなかった「哲学」という言葉は、前から存在していた「哲」と「学」という要素を組み合わせて、新たに作り出されたものである。その点で、「哲学」というのは、免疫反応における抗体のようなものである。「フィロソフィア」をそのまま日本語に置き換えたというようなものではなかった。抗体分子を合成するとき、遺伝子の方でもV、D、J、C 遺伝子という要素を組み合わせる遺伝子の再構成を行って、もともと存在しない新しいタンパク質を作り出す、ということを第2章に述べた。侵入した抗原「フィロソフィア」は、日本語の「自己」の中で処理されて、要素の再構成によってそれに対応する。「哲学」という抗体を合成させた、と考えるべきであろう。「哲学」という新造語は、「フィロソフィア」という抗原に対する抗体であった。抗体を合成することによって、免疫系が異物である抗原情報を「自己」内部で処理できたように、「フィロソフィア」という概念を、日本語の「自己」の中に取り込み処理することができるようになったものと私は考える。
 その証拠に、「哲学」には「フィロソフィア」の本来持っていたいくつかの概念が欠けている。たとえば日本語で「科学」と呼ばれる「サイエンス」も、基本的には「フィロソフィア」の中に含まれていたはずである。抗体が、抗原分子のごく一部の構造のみと反応するのと同様に、訳語というのは原始の持つ意味のひとつひとつの部分構造にしか対応できないのである。そのため西周は、もうひとつの造語「科学」を作り出したが、こちらもまた「サイエンス」のすべての部分に対応したものではなかった。

個体の老いの中には器官や細胞の老いが入り込み、細胞の老いには分子の老化が、そして分子の老化をもたらす遺伝子の変化が、というように老化には入れ子構造のように小型の老化が入り込んでいる。

「老いの波」というように、さまざまな老いの現象が経事的あるいは立体的に押し寄せてくるのが老いである。世阿弥作の能「関寺小町」では、百歳の姥となった小町が、「忍ばしの古の身やと思ひし時だにも、また故事になり行く身の、せめて今はまた初めの老ぞ恋しき」と嘆く。

こうして露呈された免疫系の老化は、細胞の分裂回数の低下とか、生理機能の減退というようななまやさしいものではなくて、免疫スーパーシステムという体制自体の崩壊を反映しているものであった。胸腺という、「自己」の生成の場が衰退した結果起こった「自己」の体制の崩壊である。
 生命というスーパーシステムは、遺伝的プログロムを次々に引き出し、多様な要素を作り出してそれを自己組織化することによって成立する。作り出されたさまざまな要素は、まず相互依存的に充足した絵費さ構造を作り、さらに内部および外部の情報を取入れることによって、「自己」の体制を確立し、それは状況に応じて流動的に運営される。これがスーパーシステムである。
 再生系であれ非再生系であれ、老化とともにその要素の一部に修正不可能な欠陥が生じる。その原因は、さまざまなタイプの再生系細胞に不規則に起こってくる細胞分裂の制限とか、それによって起こる構成要素のアンバランスもある。またアポトーシスを介した免疫系や神経系のネットワークの構成要素の部分的欠落であっでもよい。それがスーパーシステムの予備能力を超えたとき、必然的にシステムは崩壊の道を選ぶ。それは自己適応による自己生成という、機会を超えたルールを選んでしまったスーパーシステムの必然的な帰結である。生理的機能の減退などというおだやかなものではなかった。

いま大ざっぱに、バルセロナの都市構成を眺めてみたが、そこにもまたスーパーシステムの技法が流用されているように私は思う。まず単純なもの(住居)の複製に続くその多様化、多様化した機能をもとにした自己組織化と適応、内部および外部環境からの情報に基づく自己変革と拡大再生産等、いずれも高次の生命システムが持っている属性を共通である。ローマ、パリ、東京、ニューヨーク、いずれも同様の「技法」を使って発展してきたのではないかと私は考えている。
 その上スーパーシステムとしての都市は、歴史の「記憶」を持っている。私たちが措置を旅してのぞきこむのは、都市の「記憶」である。この「記憶」によって都市は同一性を保つ。
 そのため、都市は最終的に「自己」というものを持つようになると思う。東京はまぎれもなく東京であるし、ニューヨークとフランクフルトの「自己」が明瞭に異なっている。都市で常に進行している建設も破壊も、創造も退廃も、都市が常に自己変革を行いながら発展するためにもともと付随していた生命か都合の現われであろう。
 それに対して、完全なブループリントによって計画された都市はどうであろう。ブラジリアも、イタリアのエウルも、シンガポールも、ある点ではモスクワも、都市のダイナミズムと生命を持つには至っていない。日本でも官僚的プロジェクトで成立した幕張メッセとか大阪のビジネスタウンとか、ホームレスさえ住めない無機的な街が作られるようになった。バーチャル・リアリティの都市である。それはプログラムされたシステムとしての都市だからである。

最近の宗教犯罪などをみると、スーパーシステムの原初の発生過程ともいえる教団成立と、誤った選択による必然的な崩壊が典型的に示されているように思われる。教団というのもまた、教祖という万能の、しかしそれ自身では何ものでもないものから始まる。教祖は、時分と同じ役割を持つ者を作るところから始まる。自己複製的技法である。十大弟子とか福音者と呼ばれる弟子たちは、比較的均一の信者集団を拡げてゆくが、その間に教義は必然的に多様化してゆく。内部の軋轢が生じ、裏切りが生じ、教団をかけての選択淘汰が起こるのはお決まりの筋書きである。教団は、社会や政治などの外部からの情報、さらに内部で新たに生産された情報をもとに変革されながら発展してゆく。
 それが崩壊するのは、最近の宗教犯罪で明らかなように、情報の排除によるのではないだろうか。外部からの情報を取入れることを阻み、時分で作り出した譲歩翁だけで動くようになった時、スーパーシステムは必然的に崩壊する。

モリヤ * た行 * 08:59 * comments(0) * trackbacks(0)

免疫学個人授業 先生=多田富雄 生徒=南伸坊 新潮社

 多田富雄さんの著書、2冊目です。
本当は「生命の意味論」というあまりにも著名な作品を読みたいのですが、
免疫学というのが、どうも私には難しい気がして、
もうちょっと入門編として、違う物を読んでからにしようかと
まず、わかりやすく書かれていそうなこのご本を手にとりました。
私は自分がおばかなことをよく知っているので(汗)

この本はとっても面白かったです。
多田富雄先生が講義したものを、生徒である南伸坊さんが、まとめていく。南さんはとてもわかりやすくまとめてくださっているので、私もふんふんと、わかったような気分になれます。

人間のからだってすごいのですね。
いえ、人間だけでなく、生きているものすべては、とってもうまくできているのだと思いました。自然にまさるものは、ないのでしょうね。

本のカバーは南さんのイラストによるものですが、
私はふつう、本を読むときはカバーをはずします。
持ち歩いたり、長く読んでいたりするうちに、カバーが傷んでしまうのがいやだからです。
と、言ってもこれは1日で読み終えることができましたが。
カバーを外すと、その中は大学ノートのような装丁になっていました。
それも私が一番好きな、グレーと黒の、昔からある大学ノートににせてあるのでした。
なんだか、それも嬉しかった。

メモ
私は人間が何かを考えるというのは面白いからだと考えている人間ですが、それじゃ面白いとは何かというと、自分が何かを「学習」した、その「学習のしくみ」を「学習」することが「面白い」。私の用語でいうと、「面白い」とは「メタ学習」であるという理屈なんです。「自己目的」的ですよね、これはホントに。

風邪というのはね、僕は風邪で何が起こっているのか、毎日刻々とわかるんですよ商売柄。
例えば風邪をひくでしょ、一番最初の日、熱なんか出ない、なんとなくのどが痛い、いがらっぽい。そういう感じですね。
 この時、何が起きているかというと、ウイルスが体に入った。ウイルスに対するレセプター(受容体)を持っている細胞にそれがくっついた。くっついてその中でウイルスが増えはじめる。
 そうするとインターフェロンという、ウイルスの増殖をとめるような物質が、その感染した細胞でつくり出されるんです。ちょっとのどがおかしい、というのはこの、インターフェロンが出たせいです。このインターフェロンに粘膜の細胞が反応しているわけです。
 継の段階ではナチュラルキラー細胞(NK細胞)とかマクロファージという細胞が出てくる。NK細胞は、感染を起こした細胞を殺して排除しようとする。マクロファージは、感染したり傷害された細胞を構わず食べちゃう、食べて排除しようとするんです。でも、こんなことでは風邪は治りません。
 このマクロファージから次ぎにインターロイキン1という物質が出てきます。インターロイキンはいろんな作用がありますが、1つは脳に働く。脳の視床下部というところに働いて、発熱中枢を刺激する。そうすると熱が出てきます。
 もう一つは、T細胞に働く。インターロイキン1が働いてT細胞が刺激されます。T細胞がだんだん増える。そうなるまでに2〜3日かかります。
 増えたT細胞は、異変があるらしいというので、のどとか鼻に寄ってくる。そしてそのT細部の中に、インフルエンザウイルスと反応するのがいると、そこで分裂を始める。と同時にいろいろなインターロイキンとかサイトカインとかよばれるものをどんどんつくり出す。
 サイトカインとかヒスタミンとか、こういう体の中の刺激伝達物質が働くと、クシャミが出たり、鼻水が出たり体がだるくなったりします。
 風邪薬というのは、こういうときに、クシャミを抑えたり、鼻水をとめたり、熱をさげたりするわけですが、根本の原因、つまりウイルス感染そのものを治しているわけじゃないんですね。
 つまり、薬で風邪は治らない。風邪は自分の体が治してくれるまで待つしかないんです。
 サイトカインは、次ぎの段階でキラーT細胞、眠っているキラーT細胞を起こして指令をだ左右。そうすると、キラーT細胞は現場に寄ってきて分裂したりして働き出します。
 このキラーT細胞が出てきて、初めてウイルスに感染している細胞が殺されてゆくのです。ちょうどその頃、やはりインターロイキンのおかげでB細胞というもう1種類の細胞が働き始め、ウイルスを中和する抗体を合成しはじめます。
 初めの頃の抗体というのは、効果の弱いIgMという抗体を作るように変化する。
 しばらくの間、なかなか治りが悪いと思っている頃は、これはまだIgMなんですね。それがある日突然、きょうは大分気分がいいぞ、という日がくる。この時にIgMがIgGにスイッチしてるんですね。私は、今日IgGに遺伝子のスイッチが入ったな、と思って安心するわけです。IgGになると非常に強力にウイルスを中和する作用がある。
 ウイルスに感染してからIgG抗体が十分にできるまでに、だいたい1週間ぐらいかかります。

免疫の研究をしていると、生命が進化の過程でしたたかな回復力を獲得してきたことに驚かされます。その「したたかさ」は、「堅固」というのではなくて、何度でも傷つきながら見事に治癒してゆくという「しなやかさ」によっていることも知りました。それが生命の「力」だったのです。免疫系、脳神経系、内分泌系は、これまでお互いに無関係なシステムと考えられてきましたが、実際はおなじ受容体やホルモン様の物質を利用してつながり合い、全体としての生命を維持しているのです。南さんが、このシリーズの最後のしめくくりとして、「生命の全体性」、「回復する生命」というところに結論をもっていったことに敬意を表します。




モリヤ * た行 * 09:06 * comments(0) * trackbacks(0)

「火宅の人(上・下)」壇一雄、「壇」沢木耕太郎 ともに新潮文庫

 何の本だったか忘れてしまったけれど、読み終えたあとに、後ろのページにある他の作品の紹介欄に、沢木耕太郎の「壇」があったのね。
あ、読みたいな、と思った。
でも、壇一雄を読んだことがなかったので、
じゃあ、その前に壇一雄を読もうと思ったの。
壇一雄は、とっても有名な作家だから、読んだことがなくても代表作のタイトルは知っているでしょう。
「リツ子・その愛」や「リツ子・その死」もあるけれど、やっぱ「火宅の人」かなと思い、手にとってみました。

私小説と言われるけれど、私小説というのは小説だから、事実をそのまま書いているわけではないのよね。それはやはり小説なの。
それでも、自分の体験が強くベースにあって、モデルと思える人間がいる。
作家の家族って、たいへんだと思いました。

」「火宅の人は、主人公の破天荒な毎日が描かれていますが、文章は細部にいたるまで美しくて、作家はこうでなくっちゃね!と思う私です。
たくさん出て来る食べ物や、お料理の場面は、よだれが出てしまいました。

「壇」は「火宅の人」の正妻のモデルである檀一雄の妻が語ったところを、沢木耕太郎が書いたものですが、胸がつまる思いがありました。
夫である檀一雄の「火宅の人」を読んで

それは違います。そんなことを思っていたのですか、と何度も胸の中で声を上げたことだろう。

と。

また、

読み終わって、私は茫然とした。

と。

それでも、檀一雄の妻は、生まれ変わってもまた壇一雄の妻になることを望んでいるのでした。


最後はこう締めくくられています。

あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。
だが、それも、答えは必要としない。


モリヤ * た行 * 10:55 * comments(0) * trackbacks(0)

生命をめぐる対話 多田富雄 大和書房

 多田富雄さんをおしえてくれたのは、友人です。
さっそく、著書を買ったのだけれど、それから1年ちかくそのまま読まずにきました(私には、よくある話で)。でもずっと読みたいと思っていたのね。
で、やっと1冊読みました。

多田富雄さんという方は、私はまったく(不勉強で)知らなかったのだけれど、免疫学の著名な先生なのですね。

これは対談集です。対談されている方々が、またそうそうたる・・・・

目次を挙げてみても

「人間は長生きする必要があるでしょうか」
肉体の老いを愉しむーー五木寛之

「われら男性は女性の変形なのか」
精神の身体化の時代ーー井上ひさし

「『非自己』を排除することが自己認識になりますか」
生命のシステムと言葉ーー日野啓三

「能は後味・・・いい言葉です」
老人の曲を最高とする能の不思議ーー橋岡久馬

「死の傍まで行っても答えは落ちてないわね。見てきたから、これは本当です」
お能と臨死体験ーー白洲正子

「花粉症の増加は免疫学にはどう説明出来ますか」
巨大な情報ネットワーク免疫の謎ーー田原総一朗

「下手に経済発展するよりも、テレビゲームをやっている方がこれから先は健康じゃないか?」
インターネット唯能論ーー養老孟司

「生きものはかなりしたたかという感じがしますね」
スーパーシステムとゲノムの認識学ーー中村桂子

「戦争の一番すぐれたタイプのウイルスが、エイズだったのだろうと考えられますね」
ウイルスの世紀ーー畑中正一

「脳ではなくて、もう一度身体の原則の方に戻ることが必要なのかも知れませんね」
科学・社会・芸術を横断する思想ーー青木保+高安秀樹



おもしろかったです。むずかしくてよくわからない部分はたくさんありましたが、私なりに、おお、と思う部分もあって。

免疫細胞の話がたくさん出てきて、それを読んでいると、人間の体のすばらしさをたくさん感じます。なぜ、こんなふうに人の体が出来ているのかという感動と不思議。

memo
人の生き方には前期・後期がある(五木寛之との対談の中で)
(多田)ええ。作家のみならず、すべての人間に前期の生き方と後期の生き方がある。お能のシテと後シテといってもいいかもしれません。前期というのは運命に抗いながら自分の生き方を発見する時期ですが、後期の方は運命を受け入れた上で生き方を確立してゆくときです。そういう意味で、一生の間には後期の生活様式を作るという、そういう区切りのときがあると思うんです。

(多田)後期の生理活動が始まるところが老化の始まりだと考えてもいいと思うんです。しかしそこには新しい制御の仕方が生まれる。老化はいままでネガティブにばかり見られてますけれども、それは新しい生理活動が始まるときと考えてもいいだろうと思いますね。

(五木)60過ぎて人生がすごく面白くなってきました。衰えとかいろんなものが出てくるようになって、体のことが神秘的で、不思議で、急に興味深く思われてきたんですよ。そういう意味じゃ自分では、年をとるもの面白いな、という気がすごくある。よく年よりの時期のことを「玄冬」と言いますが、暗い冬ということですね。それは「玄の玄」といって、ぼんやりと霞んだ中に、若いとき見えてなかったものが見えてくるような季節というふうに考えればまた面白い。

(多田)現場から少し葉鳴れて細かい部分が見えなくなったら、新聞の細かい活字が見えなくなると、かえって大見出しが見えてくるように、生物学のいろんな大見出しが見えてきたんです。それから具体的な小さな事実が見えなくなったかわりに、事実と事実の間の関係などが見えるようになりました。

日野啓三との対談で
(日野)意識にとってはより下の次元のほうがわかりやすいということがあって、そのわかりやすいことが逆によくないんだと思います。われわれがわかりやすさをある意味では犠牲にしても、あいまいな、そのレベルのリアリティーをよく受け止めなければいけない、感じ取らなければいけないと思うんです。

(日野)現実をわかるというのは現実のいろんな階層をある意味では区別しながらわかることで、次元が上がるにつれて、ルールは変わりますね。そして、それを認識する意識のルール、つまり言葉も変わるんじゃないか。あるいはそれを記述する記述のスタイルも変わるのではないかと思います。

(多田)河合隼雄さんが言っておられましたけれど
(ここは、河合さんのお名前が出ただけで、私の気持ちが高揚したのです)

橋岡久馬さんとの対談
(橋岡)そう、朽木にならなければ駄目なんです。お客様に朽木の味わいを与えなくてはね。

(橋岡)しかし、古来伝えられた名曲を、繰り返し実直に稽古し上演してゆくことはもっと大切です。さかしらに古来の型を変更するのではなく、その中に無限の境地を発見してゆくのです。

白洲正子さんとの対談
(白洲)どうしても舞台にのぼってやらないとだめなのよ。いくら普段やっててもだめなの。やっぱりある緊張感みたいなもの、攻められるような感じを得る。あれはやっぱり舞台で覚えるんですね。見物の前で。

(多田)男の脳の構造と、女の脳の構造は、少し違うんです。男の脳は、胎児のころ脳の構造が出来てくる途中で、ホルモンの影響によって、女的な脳を男的な脳に変えちゃうんですね。一旦、変更すると、それはもともとの女の脳の持っていなかったような、ある種の新しい能力を持ち始めるんです。しかも、男という環境の中で、それをますます育てるようになりますから、それで男のやり方と女のやり方というのは、かなり違ってくると思うんです。そのため、女がもともと持っていたものの一部は失ってしまうんですけど。たとえば女の脳の方が右脳と左脳がつながっていて本当はバランスがいいんですが、男の脳はそのつながりが弱くてそのために論理的な構築能力とかが新しく入り込むんですね。そういう点では、男の脳のほうが別な新しいものをつくり出しているのかもしれないんです。でも、基本形は女の脳です。

(白洲)舞ってても大いにあるのよね。気持ちよく舞えて囃子がうまくて、みんなうまくいったかと思ってるとそうでもなかったりする。自分だけがおもしろがっていることもある。ところが、今日はもうギコギコしちゃって、なんだかスムーズにいかなかったというような時でも、ようございました、ということもあるの。自分にはわかんないのね、あれ。
(多田)そうですね。世阿弥が「離見の見」と言いましたですね。自分で考えてるのとーー。
(白洲)他人が見るのと違う。
(多田)他人が見ているように自分を客体化して最終的には演じなければならないということなんでしょうけどね。

中村桂子との対談
(中村)機械論ですと1対1という考え方になりますが、生物の場合は1対1ということはほとんどないと言っていいぐらい、1対多でいつもやってますね。それは逆に言うと、構造体としてはそんなに複雑ではない、部品として見るとそんなに複雑ではないけれども、1対1でないために、とても微妙なことが出来ている、そこが本質のような気がします。

(中村)人間の社会だったら×を付けられそうなことを、細胞レヴェルではやっていて、しかもそれが結局はなかなか巧い生き方につながっていると思うことがあります。

青木、高安さんとの対談
(多田)免疫の場合ですと、異物を単純に排除するだけでなく、「免疫学的寛容」という言葉がありますが、相手の侵入に寛容になって共存の道を選ぶことがあるし、逆に強く反応してしまった細胞がアポトーシスというやり方で自ら死んでゆくことによって共生してしまうこともある。当事者となる免疫細胞は、反応の場に応じて反応すべきか反応せざるべきかを一つひとつ考えているわけですが、その結果、条件に応じて異なったタイプの反応を起こします。どのような条件があれば強烈に排除し、どのような条件があれが排除をやめて寛容になってしまうかを分析していくと、生命活動としてひとつの民族が他民族を排除していくときの条件やルールが見えてくるかもしれません。

(青木)どういうときには排除し、どういうときには寛容にあんるのか、その辺がわかると非常に面白いと思います
(多田)それが、現代の免疫学で最も重要な研究課題の一つです。いくつかわかっていることを申し上げますと、例えば同じ異物を認識したとき、それだけでは細胞は排除の反応を起こさないんですが、そのとき第一の認識に対して第2の別のシグナルが同時に与えられると、その細胞は排除の方向に向かっていく。つまり細胞は同じ異物の発見をしたとしても、もうひとつの条件が揃わない限り汎翁を起こさない。その条件というのが周辺から与えられる第2のシグナルです。この第2のシグナルがブロックされてしまうと、認識はするけれども排除はしないで、逆に共存したり自滅してしまうこともある。相手を認識したおかげでその細胞は自分から自殺してしまうという、そういう現象も起こるんでう。ですから排除という反応を回避するために細胞が何を起こしているかというと、面白いことに「寛容」とか「抑制」とか「自己犠牲」というようなことなのです。免疫班のでは、細胞は自分の置かれた複雑な環境条件の中であれこれ判断して決めているらしいんですが、それらの原則がわかってくるといろいろ応用できるんじゃないかと思いますね。






モリヤ * た行 * 19:48 * comments(2) * trackbacks(1)

われ笑う、ゆえにわれあり 土屋賢二 文春文庫

「サンクチュアリ」がかなりヘビーな作品だったので、
次は、がははと笑えるものが読みたいなと思ったのだった。
それで夫の本棚を探しているときに、みつけたのがこの本。

不勉強なので、作者を知らなかったのだが、
タイトルから推察される通り、哲学の先生だった。大学の先生だったのね。
哲学の大学教授といえば、私が兄と慕うある方もそうなのだが、
まあ、それは今回はおいておくとして・・・・

いろいろなテーマをあげながら、
悪のり、屁理屈のようにみせかけた(?)展開で、話をすすめていく。
中には、ぎくっとなることはもちろんあるのだったが、
ちょっと最後は疲れちゃった。

でも、もちろん、ああ、いいなあと思うところはたくさんあった。
その中の一部を抜粋

・・・しかし、この方法を実践することは、お笑いタレントでもないかぎり、かなり難しい。とくに、深刻さの度合いが増すにつれて笑うことが難しくなる。それだけに、不幸を笑いに変えられる能力は、高く評価されてもよい。
 英米ではユーモア精神が高く評価されているが、ユーモア精神は最終的には、自分を笑うことができる能力、苦境に立たされても笑うことのできる能力のことであろう。つまり、不幸を笑いに変える能力のことであろう。

・・・手を打てることについては、人事を尽くし、どうにもならないことについては、笑ってすませる、という態度をとれるまでに成熟した人間、これをまず、人間の理想として意識することが必要ではなかろうか。

JUGEMテーマ:読書


モリヤ * た行 * 08:17 * comments(0) * trackbacks(0)

『三千世界の烏を殺し』 竹田真砂子


短編で…さらっと…そんなに入れなかったのですが、このタイトルが気になって。
三千世界の烏を殺し
主と朝寝がしてみたい
 
これは高杉晋作の都々逸。「三千世界」は仏教用語で、広くは「広い世界・全世界・世間の意」だから何だというんだろう…分かったような分からないような。。。
てんこ * た行 * 21:14 * comments(0) * trackbacks(0)

番外編 李歐

 ちょっと番外で投稿します。
 私の愛する小説、高村薫著「李歐」ですが、以前にてんこ氏とこれが映画化されるのであれば、李歐役は誰か、という話をしたことがありました。
 今、TVで「夜王」というホストのドラマをやっておりますが、ここに出ている、ナンバー1ホスト役の「北村一輝」様。私はこのかたが、李歐にぴったりだと思っているわけです。
 そもそも一番最初に北村さまをTV で観たときに、「臓器販売の仲介人の中国人」という役をやっておりました。あの眼、あの唇のはしから頬にかけての感じ、もー、李歐にぴったり!と思っているのです。
 金曜夜十時からTBSでやっております。今回はホスト役でちょっと雰囲気も違いますが、ちょっと観てみませんか?
モリヤ * た行 * 16:57 * comments(2) * trackbacks(1)

みどりのゆび  ドリュオン作 岩波少年文庫

ポスター貼りをしていた町で見つけた、小さな本屋さん。そこで子どものころに読んだ懐かしい本を見つけて、思わず購入。娘に読ませる前にまず自分から。  
鋭く大人の世界を批判しているのに、詩的で夢のように美しい。少年チトの親指が生み出す鮮やかな世界が、私の子ども心に焼き付いている。
てんこ * た行 * 20:44 * comments(0) * trackbacks(0)

F・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 

映画『ブレードランナー』の原作。でも全く別の作品として見たり、読んだりしたほうがいいかも。両方好き。このタイトルに味わいが…!
原作:ある社会におけるステータスは、別の共同体から見たら単なる幻想としか感じられないことがある。私達も何かを追い求めるあまり、至極滑稽な真似をしているのではないだろうか。映画:アンドロイド達がたまらなく哀しい。
てんこ * た行 * 13:30 * comments(7) * trackbacks(0)

高村 薫 「李歐」 講談社文庫

高村薫の文章が好き。
男女の機微も工場の旋盤も、殺意も愛情も友情もすべてが等価。緻密で立体的に浮かび上がってくる。職人芸だわ!と、まるで舐める様に読んでしまう。 
一彰と李歐。15年間思い続け、命がけで約束を果たそうとする、2人。濃厚にロマンチックなのに、クールな現実感を持って迫ってくる、文章と構成。
出てくる男達ではなく、そこに「惚れた」
てんこ * た行 * 00:16 * comments(2) * trackbacks(0)
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