多田富雄さんをおしえてくれたのは、友人です。
さっそく、著書を買ったのだけれど、それから1年ちかくそのまま読まずにきました(私には、よくある話で)。でもずっと読みたいと思っていたのね。
で、やっと1冊読みました。
多田富雄さんという方は、私はまったく(不勉強で)知らなかったのだけれど、免疫学の著名な先生なのですね。
これは対談集です。対談されている方々が、またそうそうたる・・・・
目次を挙げてみても
「人間は長生きする必要があるでしょうか」
肉体の老いを愉しむーー五木寛之
「われら男性は女性の変形なのか」
精神の身体化の時代ーー井上ひさし
「『非自己』を排除することが自己認識になりますか」
生命のシステムと言葉ーー日野啓三
「能は後味・・・いい言葉です」
老人の曲を最高とする能の不思議ーー橋岡久馬
「死の傍まで行っても答えは落ちてないわね。見てきたから、これは本当です」
お能と臨死体験ーー白洲正子
「花粉症の増加は免疫学にはどう説明出来ますか」
巨大な情報ネットワーク免疫の謎ーー田原総一朗
「下手に経済発展するよりも、テレビゲームをやっている方がこれから先は健康じゃないか?」
インターネット唯能論ーー養老孟司
「生きものはかなりしたたかという感じがしますね」
スーパーシステムとゲノムの認識学ーー中村桂子
「戦争の一番すぐれたタイプのウイルスが、エイズだったのだろうと考えられますね」
ウイルスの世紀ーー畑中正一
「脳ではなくて、もう一度身体の原則の方に戻ることが必要なのかも知れませんね」
科学・社会・芸術を横断する思想ーー青木保+高安秀樹
おもしろかったです。むずかしくてよくわからない部分はたくさんありましたが、私なりに、おお、と思う部分もあって。
免疫細胞の話がたくさん出てきて、それを読んでいると、人間の体のすばらしさをたくさん感じます。なぜ、こんなふうに人の体が出来ているのかという感動と不思議。
memo
人の生き方には前期・後期がある(五木寛之との対談の中で)
(多田)ええ。作家のみならず、すべての人間に前期の生き方と後期の生き方がある。お能のシテと後シテといってもいいかもしれません。前期というのは運命に抗いながら自分の生き方を発見する時期ですが、後期の方は運命を受け入れた上で生き方を確立してゆくときです。そういう意味で、一生の間には後期の生活様式を作るという、そういう区切りのときがあると思うんです。
(多田)後期の生理活動が始まるところが老化の始まりだと考えてもいいと思うんです。しかしそこには新しい制御の仕方が生まれる。老化はいままでネガティブにばかり見られてますけれども、それは新しい生理活動が始まるときと考えてもいいだろうと思いますね。
(五木)60過ぎて人生がすごく面白くなってきました。衰えとかいろんなものが出てくるようになって、体のことが神秘的で、不思議で、急に興味深く思われてきたんですよ。そういう意味じゃ自分では、年をとるもの面白いな、という気がすごくある。よく年よりの時期のことを「玄冬」と言いますが、暗い冬ということですね。それは「玄の玄」といって、ぼんやりと霞んだ中に、若いとき見えてなかったものが見えてくるような季節というふうに考えればまた面白い。
(多田)現場から少し葉鳴れて細かい部分が見えなくなったら、新聞の細かい活字が見えなくなると、かえって大見出しが見えてくるように、生物学のいろんな大見出しが見えてきたんです。それから具体的な小さな事実が見えなくなったかわりに、事実と事実の間の関係などが見えるようになりました。
日野啓三との対談で
(日野)意識にとってはより下の次元のほうがわかりやすいということがあって、そのわかりやすいことが逆によくないんだと思います。われわれがわかりやすさをある意味では犠牲にしても、あいまいな、そのレベルのリアリティーをよく受け止めなければいけない、感じ取らなければいけないと思うんです。
(日野)現実をわかるというのは現実のいろんな階層をある意味では区別しながらわかることで、次元が上がるにつれて、ルールは変わりますね。そして、それを認識する意識のルール、つまり言葉も変わるんじゃないか。あるいはそれを記述する記述のスタイルも変わるのではないかと思います。
(多田)河合隼雄さんが言っておられましたけれど
(ここは、河合さんのお名前が出ただけで、私の気持ちが高揚したのです)
橋岡久馬さんとの対談
(橋岡)そう、朽木にならなければ駄目なんです。お客様に朽木の味わいを与えなくてはね。
(橋岡)しかし、古来伝えられた名曲を、繰り返し実直に稽古し上演してゆくことはもっと大切です。さかしらに古来の型を変更するのではなく、その中に無限の境地を発見してゆくのです。
白洲正子さんとの対談
(白洲)どうしても舞台にのぼってやらないとだめなのよ。いくら普段やっててもだめなの。やっぱりある緊張感みたいなもの、攻められるような感じを得る。あれはやっぱり舞台で覚えるんですね。見物の前で。
(多田)男の脳の構造と、女の脳の構造は、少し違うんです。男の脳は、胎児のころ脳の構造が出来てくる途中で、ホルモンの影響によって、女的な脳を男的な脳に変えちゃうんですね。一旦、変更すると、それはもともとの女の脳の持っていなかったような、ある種の新しい能力を持ち始めるんです。しかも、男という環境の中で、それをますます育てるようになりますから、それで男のやり方と女のやり方というのは、かなり違ってくると思うんです。そのため、女がもともと持っていたものの一部は失ってしまうんですけど。たとえば女の脳の方が右脳と左脳がつながっていて本当はバランスがいいんですが、男の脳はそのつながりが弱くてそのために論理的な構築能力とかが新しく入り込むんですね。そういう点では、男の脳のほうが別な新しいものをつくり出しているのかもしれないんです。でも、基本形は女の脳です。
(白洲)舞ってても大いにあるのよね。気持ちよく舞えて囃子がうまくて、みんなうまくいったかと思ってるとそうでもなかったりする。自分だけがおもしろがっていることもある。ところが、今日はもうギコギコしちゃって、なんだかスムーズにいかなかったというような時でも、ようございました、ということもあるの。自分にはわかんないのね、あれ。
(多田)そうですね。世阿弥が「離見の見」と言いましたですね。自分で考えてるのとーー。
(白洲)他人が見るのと違う。
(多田)他人が見ているように自分を客体化して最終的には演じなければならないということなんでしょうけどね。
中村桂子との対談
(中村)機械論ですと1対1という考え方になりますが、生物の場合は1対1ということはほとんどないと言っていいぐらい、1対多でいつもやってますね。それは逆に言うと、構造体としてはそんなに複雑ではない、部品として見るとそんなに複雑ではないけれども、1対1でないために、とても微妙なことが出来ている、そこが本質のような気がします。
(中村)人間の社会だったら×を付けられそうなことを、細胞レヴェルではやっていて、しかもそれが結局はなかなか巧い生き方につながっていると思うことがあります。
青木、高安さんとの対談
(多田)免疫の場合ですと、異物を単純に排除するだけでなく、「免疫学的寛容」という言葉がありますが、相手の侵入に寛容になって共存の道を選ぶことがあるし、逆に強く反応してしまった細胞がアポトーシスというやり方で自ら死んでゆくことによって共生してしまうこともある。当事者となる免疫細胞は、反応の場に応じて反応すべきか反応せざるべきかを一つひとつ考えているわけですが、その結果、条件に応じて異なったタイプの反応を起こします。どのような条件があれば強烈に排除し、どのような条件があれが排除をやめて寛容になってしまうかを分析していくと、生命活動としてひとつの民族が他民族を排除していくときの条件やルールが見えてくるかもしれません。
(青木)どういうときには排除し、どういうときには寛容にあんるのか、その辺がわかると非常に面白いと思います
(多田)それが、現代の免疫学で最も重要な研究課題の一つです。いくつかわかっていることを申し上げますと、例えば同じ異物を認識したとき、それだけでは細胞は排除の反応を起こさないんですが、そのとき第一の認識に対して第2の別のシグナルが同時に与えられると、その細胞は排除の方向に向かっていく。つまり細胞は同じ異物の発見をしたとしても、もうひとつの条件が揃わない限り汎翁を起こさない。その条件というのが周辺から与えられる第2のシグナルです。この第2のシグナルがブロックされてしまうと、認識はするけれども排除はしないで、逆に共存したり自滅してしまうこともある。相手を認識したおかげでその細胞は自分から自殺してしまうという、そういう現象も起こるんでう。ですから排除という反応を回避するために細胞が何を起こしているかというと、面白いことに「寛容」とか「抑制」とか「自己犠牲」というようなことなのです。免疫班のでは、細胞は自分の置かれた複雑な環境条件の中であれこれ判断して決めているらしいんですが、それらの原則がわかってくるといろいろ応用できるんじゃないかと思いますね。
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