今、話題の作品ですね。
なかなか手にはいらないとも聞いていますが、書店で注文して読みました。
彼が小説を書く、ということについて語っている文章がとても好きで、いつも泪してしまうのですが、
やはり小説家は小説を読むのがいちばん!
1巻、2巻ともに500ページもある長編でしたが、いっきに読みました。
青豆と天吾という2人の主人公の2つのお話が、交互に出てきますが、それがだんだんと接点を持っていきます。
どちらもはらはらする展開でした。主人公は二人共孤独な人間ですが、お話の中で彼らの哀しみと善意のようなものを感じました。
メモ
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないいように。現実というのは常にひとつきりです。」
そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。
物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。
「私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとってただの乗物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです」
「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない、そういうことですか?」
その手のオカルト的なものごとに興味がまったく持てません。大昔から同じような詐欺行為が、世界の至る所で繰返されてきました。手口はいつだって同じです。それでも、そのようなあさましいインチキは衰えることを知りません。世間の大多数の人々は真実を信じるのではなく、真実であってもらいたいと望んでいることを進んで信じるからです。そういう人々は、両目をいくらしっかり大きく開いたところで、実はなにひとつ見てはいません。
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